1996年、日本シリーズで巨人を破り、プロ野球界の頂点に立ったオリックス・ブルーウェーブ。ユニフォームの右袖に「がんばろうKOBE」のワッペンを縫い付けて戦った彼らの雄姿は、暗く沈みがちな被災者たちの心を強烈に鼓舞し続けた。
この年、12球団の覇者となった青波軍団にあって、バットでチームを引っ張ったのはイチロー。言わずと知れた不世出の天才バッターである。そして、オリックス投手陣の象徴となったのは背番号43。右のスリークォーターから繰り出す快速球で三振の山を築いた長身のセットアッパー、鈴木平だった。
しかし、彼の絶頂の時期は、そう長くは続かなかった。日本一の翌年からは肩とひじの故障に苦しみ、本来の実力を発揮できなくなっていた鈴木は、中日、福岡ダイエーと渡り歩いた末、2002年のオフにユニフォームを脱いだ。
そんな鈴木がセカンドキャリアとして選んだのは、手技療法士の仕事だった。